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時事問題の全てがわかる!

 小樽商科大学の学生による意見集

バーリンの自由論

前回は理性が人間を自由にする、という考えを追求していくと、自由と専制主義は同義になってしまうおそれがあることについて書いた。今回は、第6章について書きます。

カントの「温情的干渉主義(パターナリズム)は考えられうる限り最大の専制である」という言葉には、純理性主義的な意味よりもはるかに広い意味が与えられることになる。

自分が一個の人間―自分の生活を自分自身の目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもない)にしたがって形成してゆくべき人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間―であるという考えに対する侮辱であるからなのだ。

この章で問題とされていることは、他者からの自己の承認の要求は消極的自由を狭めることよりも価値があるのかどうか、ということである。パターナリズムは消極的自由を狭めはしないが、社会や政治に参加することで、得られる価値や地位は大きく制限されるか、「社会の孤立的な一原子」として扱われてしまう。

こうした社会や政治に参画する権利、対等の条件での結合の要求などは社会的自由と呼ばれ、「積極的」・「消極的」自由とは区別される。社会的自由の約束されている社会では、たとえ

人々が寡頭制的独裁者ないし独裁的執政者の権威に従属しておりながら、ある意味ではこれによってかれらが解放され自由にされていると主張することが可能となっている

ここで、有機的な社会に対する地位や承認の要求は、第3の意味としての自由への要求と名付けることは自然であり、望ましいのかという問いが出てくる。ここでの自由とは、自分の自由と引き換えに社会的な地位を手に入れることではなく、J.S.ミルが「異教的な自己主張」と名付けたものに近い概念であると説明されている。

大胆さ、不適合、不適応を尊重し、世に行われている見解に対して個人独自の価値を主張することを重んじ、社会の公的な立法者なり教師なりの与える指導から自由な強い独立自尊の人格を評価している―は、干渉を受けないこととしての自由の概念にはほとんど関係しない。それが大きく関係するのは、自分の人格にあまりに低い価値を与えられたくないという欲求、また自分の人格が自律的・独創的な「真正」の行動―たとえこうした行動が悪口や社会的制約や禁止的立法に出くわすにしても―のできないものとみなされたくないという欲求なのである。

この社会的自由は自由の積極的な意味のいくぶんかとの混合形態をとり得る。

どのような社会でも、その成員の自由のすべてを文字通り抑圧してしまうものではない。自分のしたいことを一から十まで他人に妨げられる存在は、決して道徳的行為の主体ではありえない。(中略)法的、道徳的にはかれは人間とみなされるわけにはゆかない。

しかし、ミルやコンスタンといった自由主義の先達たちは社会生活の最小限の要求と最大限の無干渉を要求する。これらの人が要求する犠牲は、安全、地位、繁栄、権力、徳、来世での報償を目的としてなされるものである。過去にこれらを達成しようとして闘ってきた人たちは、自分たち自身あるいは自分たちの代表によって統治される権利のために戦ったのだ。ここで、前回書いた、真実の自我あるいは理性は全ての人間に普遍的に備わっているので、「万人のために正しく計画された生活は万人の完全な自由と合致するであろう」という考えは、自由という用語の明らかなあいまいさの背後に潜んでいる、心理的・政治的事実を認めないことからきている、とバーリンは推測している。

かれらの訴えは明白であり、かれらの主義は正しい。しかし、かれらは人間の願望の多様性というものを斟酌していない。またさらに、一つの理想への道がその反対へも通じているということを、ひとは得心のゆくように巧みに証明してみせることができるのだという点に、かれらはじゅうぶんな考慮を払っていないのだ。


続きます。
    19:08 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

大証、統合市場「ジャスダック」有力

大阪証券取引所の諮問機関、市場統合のあり方に関する委員会は29日、傘下のヘラクレスとジャスダックの市場統合後の名称について「ブランド力で優れるジャスダックが有力」とする報告書を発表した。

また、大阪証券取引所は、2010年4月にも子会社のジャスダック証券取引所と合併する方向で調整しているようだ。ジャスダックが大証傘下の新興市場ヘラクレスと同年秋に予定している上記のような市場統合を前に、組織を一本化し、意思決定を迅速化するのが狙いのようである。

こうした動きが株価などにどのような影響を与えるのか。今後の動向が気になるところである。
    23:13 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

麻生総理の党役員人事刷新について

衆議院の任期満了が近づき、解散が今か今かと迫る中、麻生総理は党役員人事の交代に向けて動き出した。果たして真相はいかに、、、

新たな役員候補として上がっているのが、石破茂氏やます添え氏らしいが、石破氏は打診なんてあるわけがないと口にしていることから、、、、麻生さんは一体なにをかんがえているのか?

明日に解散があってもおかしくないほど、政局は緊迫している状況です。むしろ、都議選とかぶらないようにする必要もないというのが麻生氏の本音だろうから、意表をついた次期に解散してくる可能性が高いような気がする。

あえて、マスコミが予想する次期とはずらす戦略を津kじゃいそうな気がします



    22:34 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

東国原なんて必要ない

自民党の古賀選対委員長が東国原宮崎県知事に次期衆議院選への出馬要請をしたことに対して、様々な意見が出ている。

もちろん、あれだけ人気のある知事が衆議院選に出馬すれば自民党にとってプラスになることは間違いない。だからといって、選挙に勝つためなら何でもするのか?という声が上がっている。

まず第一に、東国原氏が次期衆議院選に出馬するとなると、宮崎県知事の職務を任期途中で投げ出すことになる。もしそんなことがあれば、無責任極まりないことだろう。

そして、第二に、東国原知事はついこないだの選挙で知事に就任したばかりの、政治家としては素人といってもいい人物である。東国原知事は自分を自民党総裁候補にする気があるのか問いただしたようだが、もしそんなことがあれば、当選回数を重ねている自民党のベテラン議員は黙っていないだろう。

いくら人気があるからといって、地道に当選を繰り返してきた有力議員を差し置いて、東国原氏を総裁候補にできるはずがない。

第三に、いくら選挙で勝ちたいからといって、現在いる自民党のメンバーで勝負をせずに、国民的な人気の高いタレント知事をヘットハンティングしてごまかしているようでは、国民の目線は冷たいものになるということである。

今回の一軒は、政治家は選挙に勝てて何ぼなもので、選挙に勝つためにあらゆる手段を講じる事のいい例である。
    21:56 | Trackback : 0 | Comment : 2 | Top

バーリンの自由論

前回は、理性が大事だということを書いた。いつも通りなら、2章分書くのだが、第5章からは、内容が重要思われるので、今回は5章にしぼって書く。

もし、個々人が理性を持つことになると、そういう人が集まってできた国家は理性的な国家ということになる。もし、AさんとBさんが理性的であるならば、Aにとって正しいことは、Bにとっても正しくなければならない。これが正しいならば、Aにとって正しくないことは、Bにとっても正しくないと言えるだろうか。またそれを理由に両者を拘束するような法律を作ることは許されるか。このような法律の必要性は、弱者を保護されなければならないという点があげられる。しかし、上記の前提を正しいとする説からは、これは人間の「非」合理的な性質がもたらす側面であると考える。

自分に反対する人間はどう扱ったらよいのか。AとBのどちらもが自分が理性的だと主張するなら、どちらかが、どちらかを抑圧することになるのではないか。これについて、

わたくしの計画がじゅうぶんに理性的であるとしたら、それはかれらの「真」の本性のじゅうぶんな展開を容認し、わたくし自身の能力の実現の一部としてかれらの理性的な決定の能力の実現をも認めることになるのではあるまいか。

という問題提起をした上で

万人のために正しく計画された生活は万人の完全な自由と合致するであろう

と結論づける。

これはどういうことかと言うと、人間にはそれぞれ、「真」の自我の真の「必要」があり、これに基づく要求が一致しないのは、一方が、その「真」の自我の真の「必要」を理解していないか、理性が眠っているのだというのである。この考えを裏付けるのに、スピノザは「子供は、強制されはするけれども、奴隷ではない」と言うし、ロックは「法律のないところには自由もない」と言う。従って、ここでの自由とは、非理性的なこと、愚かしいこと、あるいは悪いことをする自由ではない。経験的な自我を正しい範形へ押し込めることは圧政ではなく、解放なのだ。また、ルソーはある共同体のなかにおいて、自分の全生活を社会のためにするものだとすれば、それは社会全成員の平等な犠牲によって作られたがゆえに、その成員を誰も傷つけることのないひとつの実態を創出するのだと言う。これらの言説に反して、ベンサムは法律の仕事は解放ではなく拘束であると主張した。

この言い分が正しいならば、つまり、誰もが理性的である状態であるならば、もはや自分が法律に拘束されているという意識は無くなるだろう。これを実践したのが、アナーキストたちである。それでは、どうしたら、人間をこのように理性的なものにすることができるのだろうか。非理性的な人は教育されるべきであると考えられる。ここで、これまで見てきた説を支持する人はこう主張する。教育はその必要性が後からでなければわからないがゆえに、強制されなければならない、と。すなわち、理性的な人に服従するのは、将来理性的な人間になる自分に服従することであるから、これを肯定するべきだと言うことである。これは、フィヒテやコントによって支持され、のちに、最近のナショナリストや、共産主義者などに至る他の権威擁護者たちによって用いられた議論であるのだ。

バーリンは、カントが自己の内なる光に従う自由な個人の理性の名において、一番激しく抗議したものが、なぜこのように奇妙な転倒を引き起こしてしまったのか、という疑問を抱いた。このような主張をしたカントであっても、道徳のレベルでは、このような主張には妥当性を持たせることができるが、話が政治に及ぶと、

法律は、もしそれが理性的存在としてみずからに問うてわたくしが承認せねばならぬようなものである限り、おそらくわたくしの理性的自由をいささかたりとも奪い取ることはありえないであろうということを容認した。

この理由は次によって説明される。

理性という審判者があなたを牢獄へ送ったという事実は、あなたが自分の内なる理性に耳を傾けなかったことの証拠であり、あなたが子供や野蛮人や白痴のように、自己支配しうるまでに成熟していないか、あるいは永久にその能力がないかの証拠であるからである。

と言う。もしこれが認められるなら、自由と専制主義とは変わらないのではないか。この議論のどこかに間違いがあるのではないか。また、正しいと証明できなければ、この説で主張される真理とは真理ではないのではないか。

といったところで、続きます。
    23:24 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

「学生の本分は勉強だ」って誰が言った?

よく「学生の本分は勉強だ」と言っているやつがいる。

おそらく、大部分の人が「勉強=座学」と認識しているのではないだろうか?もちろん、バイトをしたりすることだって勉強の一つだ、と言う人もいるに違いないが、やはり、「勉強=座学」という認識が蔓延しているように思えてならない。

私が言いたいこと。それは、「『学生の本分は勉強だ』と言って、座学を真面目にやらない人を罵るな」ということである。

もちろん、座学によって得ることも多いだろうが、一概にそうとは言えないだろう。

やはり、学びたいことを学ぶのが一番である。向き不向きはあるとしても、自分のやりたいことをやるというのが一番勉強になるのではないか?

座学を真面目にやっていない人も、他の場所では勉強をしているのだ。「勉強=座学」ではない。勉強というのはもっと広くて深い意味を持っている。

こういった意味からも、「学生の本分は勉強だ」というのは確かに真理かもしれない。だが、一般的な使われ方だと、なんだか建て前のようになっている気がしてならない。
    11:28 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

人間論

あなたは僕の言うことを真剣に聞こうとしない。「そんなものどうでもいい」「メンドクサイ」。でもあなたは外から見るととても高学歴で知的で、それでも周りに目線を合わせてくれて、どこか周りの人からは好かれそうなタイプ。

あなたは極度に争いごとを嫌い、滅多におこったり、不機嫌そうにしたりしなくて、いつも穏やかにいきています。いや、できるだけ怒らないようにしてるんですよね。そして、自分の主張はあまり強く押し出さない。だって、周りとの良好な関係が大事なんだから。

それでも、どこか方向性を間違えたような感じさえ受けます。でも間違えたなんて絶対自分で認めたくはないんですよね。きっときっと、、自分の人生否定してしまうことになるんですね。

あなたは同じ職業の人の中ではずいぶんと珍しいタイプなんですね。前の職業には完全に向いてなかったようです。わかりますよ。あなたの性格で、、そんなタイプじゃないですもんね。どこか周から好かれるのが得意そうで、周りに合わせるのが得意そうで、、、争いや揉め事を極度に嫌ってそうで、、、、

人間というものをよくわかっているみたいですね。きっときっとあなたからはたくさん学ぶものがありますよ。きっと人は人間関係という恐ろしく厄介なものから逃れる手段はないんです。






    20:40 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

バーリンの自由論(二つの自由概念について)

前回は1,2章について書きました。この論文は全部で11章あるので、できるだけ要約や感想をコンパクトにまとめたいと思うのだが、なかなか、どれも大事なことを言っているような気がして、ままならない状態です。でもせっかく書いてみたので、なんとか続けたいと思います。

人間は何か目的を達成しようとすると、さまざまな障害にぶつかりがちだ。実際手に負えない困難にぶつかったら、その場から、いかなる攻撃も及ばない場所まで、戦略的退却するという選択があり得るだろう。

「わたくしは足を怪我した。この苦痛から逃れる方法は二つある。ひとつはその傷を癒すことだ。しかし、この治療がなかなか困難であるとか不確実であるとかいう場合には、もう一つ方法がある。つまり、その足を切断してしまえば、わたくしは、その傷から逃れられるわけだ。どうしても足のあることを必要とするようなものはなにも欲しないように訓練を積めば、わたくしは足のないことを感じなくなるであろう。」


この考えを個人に適用されると、カントのような人たちは、「わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。」ということができる。これを、仮に人間の本質であると見るならば、なによりも悪いことは、人間を自由なものとしてではなく、材料として扱うことである。外的な刺激を目の前にぶらさげることで、その人を意のままにしようという扱いは、ベンサムら功利主義者が肯定するところである。カントはこう考えた。

あらゆる価値が人間の作り出したものであるならば、個人よりも高い価値は存在しないはずである。だとすると、ひとが意思せず、同意せぬことを強制するのは、かれら自身よりも究極的ならざるなにものかの名においてひとを強制することである。


しかし、禁欲的な自己否定がどうして自由の拡大と呼ばれるうるのか。自分を狭い部屋に閉じ込めれば、外から傷つけられることはなくなるだろうが、この考えの行き着くところは、自殺である。消極的自由の考え方からすれば、障害を取り除くという方法によって、自由を増大できる。しかし、現実は、自由の「積極的」概念のために、「消極的」概念を斥けているのだ。

自由を達成する真の方法は批判的理性を使うことだと説かれている。自分が理解していない数学の定理は外部の権威によって真理であると言明されていおり、この時点ではこの定理は異物でしかない。しかし、この働きを理解したならば、数学的真理というものはもはや、外的権威によって裏打ちされた外的実在ではなく、自分の理性的活動の自然な働きの経過のなかで自由に意志するところのあるものとして現れてくる。この働きは、数学や音楽等のことにだけ当てはまることではなく、あらゆる障害物をこのような仕方で克服できると考えられた。これが、啓蒙的合理主義の要綱である。

自律している、という状態は理性的必然性を理解している状態であり、他律されている、という状態はその人の無知ゆえに生じると説かれる。この考え方からすると、世界を理解することによって我々は自由になれると言うことができる。ヘルダーやヘーゲルやマルクスは、社会生活は、数学や物理学からのアナロジー(類推)によっては理解できない。だから、歴史を理解しなければならない。歴史とは、「個人や集団、それら相互間の、またそれらと自然との相互作用を支配する連続的生成の特殊な諸法則」である。ヘーゲルやマルクスは、歴史上の人々が制度の本性を誤解していたのだと説いた。

知識がわれわれを自由にするのは、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからだ。XであらねばならないものがXでもないことを欲するというのは不可能であるゆえに非理性的な欲求である。理性的な存在が集まった理性的な社会では、XはXでしかありえないという考えを否定することはできない。これが理性による解放という積極的学説であり、今日のナショナリズム、マルクス主義、権威主義、全体主義等々の信条の多くのものの核心をなしている。

また続きます。

所蔵図書館99か所
    00:03 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

どちらが幸せか?

人間には「」というものがありますね。一般的に「〜したい」という気持ち・衝動はこの「欲」のことをさしていると思います。英語で言えば、「want to〜」で表されますよね。

さて、本題に入ります。みなさんは自由奔放に欲求を満たすのと、理性によって自分の欲求をコントロールできるのとではどちらが幸せだと考えますか?いや、幸せというよりは、どちらが真に「強い」と言えるでしょうか?

私は、理性によって自分の欲求をコントロールできる人こそが強くて幸せであると考えます。自由奔放なのは、私から言わせてみれば、自分をうまくコントロールできない不幸な弱者であるように思えます。

「理性によって欲求をコントロールする」ことにも、大きく分けて二つのパターンが考えられます。一つは、欲求を完全に抑圧してしまうこと。そしてもう一つは、欲求を抑えつつ、その欲求を持ち続けることです。

上の2パターンについて考えてみます。まず前者は、自分の欲求を抑圧するのですから、我慢をすれば良いだけのことです。また、完全に抑圧するのではなく、欲求のベクトルの方向を変えるということも可能だと思います。
次に、後者は欲求をある程度の水準で抑えつつ、その欲求を持ち続けるということですから、完全に抑圧してしまうというわけではありません。念のため付け加えておきますが、ここで私が言っているのは、例えば、ゲームをやるのを我慢しつつ勉強して、勉強が終わったらすぐにゲームを始めるというような低俗なことではありません。もっともっと長い間、極端に言えば死ぬまで欲求を持ちつつ、抑え続けるということを言っているのです。

前者は比較的容易ですが、後者は一筋縄ではいかないでしょう。まして、本当に後者を実行できている人であれば、その欲求を、その我慢を他人に知られることなく、長期間を過ごし続けるのでありますから、相当のストレスでしょうね。
    11:31 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

そんな財源どこにある?

「無駄使いをなくせば消費税なんかあげる必要はない。民主党が政権を取ったら、4年間消費税は上げないことを宣言します」(民主)

  ↓

政策を実現するには財源必要。民主党は無駄使いをなくせば、財源が十分確保できるような無責任なことを言っている。無駄を省いただけで必要な財源は確保できない(自民党)

両党のこの主張は今日の党首討論でも平行線のままだった

またもや、きれいごとばかり並べて、聞こえのいいことばかり、言いやがる鳩山代表は、「人の命を大事にする政治が、大事なんだ」とか「官僚任せの政治から脱皮しなければダメ」とか、どうして誰もが否定できないような、きれいごとや理想論を言いまくって、、


なんか今日の党首討論見てたら、話している内容どうこうよりも、どっちが口げんかがうまいかの勝負になってしまってるようなくがする




  
    01:05 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

バーリンの自由論を読んだ(二つの自由概念について)

自由論自由論
(2000/06)
アイザィア バーリン

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アイザイア・バーリンはイギリスの政治哲学者で、以前「ハリネズミと狐」という本を紹介しましたが、その作者でもあります。この自由論という本には5つの「自由」という概念が関係するトピックについて語った論文が収録されています。その中でも、代表的な「二つの自由概念」について書いていこうと思います。

まず、この論文でバーリンがこの論文において為そうとしていることは

、「なぜわたくし(あるいはだれか)が他の人に服従しなければならないのか」、「なぜわたくしは自分の好きなように生きてはいけないのか」、「もしわたくしが服従しなければ、わたくしは強制されるのだろうか。だれによって、どの程度に、なんの名において、なんのために」

という、政治学の中心課題であった、服従と強制の問題について考察することである。人を強制するということは、その人から自由を奪うことであるが、その自由とはどういう性質のものなのか。バーリンによると自由には「消極的」と「積極的」の二つのタイプがあるとしている。

消極的自由とは、他人の干渉を受けずにいられる範囲のことである。ところで、この自由の範囲が無際限だったとしたら、ホッブズの言うような「万人の万人に対する闘争」状態に陥ってしまうので、法律による自由の制限を加えなければならない。それと同時に誰にも侵害されない最小限の個人的自由の範囲も存在する。そして、ロックやアダム・スミスやJ.S.ミルはこの最小限の自由は、「自然状態」を脱するために中央集権的な国家による法によって個人の自由が制限されようとも、これを踏み越えてはならぬと、主張していた。

次に積極的自由とは、自分の生活やさまざまな決定を、いかなる外的な力によるのではなく、自分自身に依拠させたいという願いである。これは、単に消極的自由を別の言葉で言い表したものではない。それを説明するのは、自己支配selfmasteryの暗喩によってである

「わたくしはわたくし自身の主人である」。「わたくしはいかなる人の奴隷でもない」。だがわたくしは自然の奴隷ではないのであろうか。あるいはまた、わたくし自身の「制御できない」情念の奴隷ではなかろうか。

という問いに二つの自由の違いが込められている。これは、果たしてわたしの自我はわたしを理想的な状態へと導くであろうか、という問題である。そこで、この「自我」はしばしばより大きな、社会的全体へと還元されてしまう。そこでは、正義や公共の健康の名のもとに、ひとを強制することが、可能であり正当化されることになる。そして、個々の自由な人々は当然それらの目標を追求するので、自ら進んでそのような規律に身をゆだねることになる。これによって、彼らの目指す目的(「真」の目的)を実現するための「真実」の自我の名のもとにかれらを嚇し、抑圧し、拷問することができる。

そして、このロジックに従えば、消極的自由においても人々を抑圧することが可能になる。これを生み出すのは独立達成のための自己否定と特殊な原理ないし理想との全面的な自己同一化なのである。続きは木曜日に書きます。

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    13:58 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

童心に返る

「童心に返る」は、一般的には子供の頃の純真でけがれのない心に戻るといった意味合いで用いられます。その意味の中でも、私は特に次のような意味合いで、童心に返ることの大切さを主張したいと思います。

人は大人になるにつれて、自分の思ったことをはっきりと言うことができなくなっていきます。具体的には、意見を言えなくなったり、自分ではわからないことのに人に聞かなくなったりしていきます。もちろん、大人になっても自分の意見をはっきりと主張したり、一見つまらない内容だと考えられる質問をできたりする人もいますが、それはごく一部だと考えられるでしょう。

なぜ、思ったことをはっきりということができなくなってしまうのか。原因は色々あるでしょう。例えば、空気を読むために、自分の行動を抑制する場合等が大いにあり得ると思います。

ただ、こういった原因で自分の思ったことを言えなくなるのは、あまり問題ではないでしょう。私が最も問題であると考えるのは、言っても無駄だという考えから自分の思うことを言わなくなるということです。

子供の頃を思い出してください。まだわからないことだらけで、つまらないことを人に聞いてみたり、意味不明な考えを言ったりしたことがありませんか?それとも、子供の頃から大人びていて、つまらない質問をしたりすることはなかったのでしょうか?

何が言いたいのかというと、「・・・しても無駄」という考えを持つぐらいなら、無知だった子供の頃の気持ちに返って、まずは自分の思っていることを言うべきだということです。これは、何でもかんでも意見したり人に聞いたりしろと言っているのではなく、「言うだけ無駄」だとか「言うべきか言わざるべきか迷う」という場面に直面したときに、本当に現状を打開したいと思っているのであれば、口を開くべきだと言っているのです。

大人になってからこそ、「・・・しても無駄」という考えは捨て去らねばなりません。
    12:29 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

自民党が政権を取ることは無理なのか?

国会の会期延長も決まり、東京都議会選挙、経済対策の著しい効果が見えてこないとうとう、解散ができずじまいで、任期満了する9月に迫る八月の解散が有力視されています。鳩山兄弟が二人揃って毎日メディアを騒がせています。何かと批判材料が多く危機的状況のように見える自民党ですが、一方で根強い自民党支持者も少なくありません。

民主党圧勝ムードが高まっていますが、選挙はやってみないとわからないのが本当のところ。一番可能性の高いのは選挙後の政界再編だと読んでいます。

さて、郵政の西川社長の続投が決まり、一件落着したところでありますが、この問題についてはいろんなことが言われています。民主党や共産党など西川社長の続投に批判的な意見も多いわけですが、一方でメディアや各評論家は西川社長続投支持に偏っているように思います。竹中平蔵も「西川社長は十分な成果を残しているからやめる必要なんてない!」「この一連の動きは単なる西川つぶしだ!」みたいな事を言っていました。

この問題で更なる批判を浴びたのが麻生総理の指導力不足問題。頻繁にリーダーの資質がないといわれ続けている麻生総理ですが、本当のところはどうなんでしょうね?
    22:08 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

Disease Of Kings

突然ですが、ヘンリー8世ニュートンベンジャミン・フランクリンの三人に共通するものは何でしょうか。答えは、彼らはみな痛風持ちだったのです。今回はニューヨーク・タイムズの痛風についての記事をご紹介しようかと思います。かなり不自然な訳し方になってたりしている部分があると思いますが、ご容赦ください。

アメリカの中高年の人たちに痛風になる人が増えてきていて、症状も重くなってきているそうです。ここ30年間で罹患者は倍になり、現在ではその数およそ200万から600万人の痛風患者がいるそうです。そもそも、痛風とはどういう病気なのでしょうか。私の手元にある電子辞書によると、

体内で核酸の代謝産物である尿酸がたまり、関節や腎臓に沈着する病気で初めは親指に起こることが多く、激痛があり、放置すると腎不全になる、という恐ろしい病気なのです。


さらに記事を読んでいくと、アメリカの製薬会社はここ10年間で、万人に効くことのなかった安価な薬の効き目を高めるために競争していたそうだ。もし痛風に効き目のある薬を創り出せたら、年間で10億ドルの売り上げが期待できる。そこへ、新しい痛風の薬がFDA(Food and Drug Administration)の審査を通過したそうだ。一つは、Savient PharmaceuticalsのKrystexxaで、もう一つは、武田薬品の子会社である武田ファーマシューティカルズ・ノースアメリカ株式会社のUloricという薬である。両者の違いはよくわからないのだが、とりあえずUloricについては、

フェブキソスタットは、新規のキサンチンオキシダーゼ[※]阻害剤であり、米国では約40年ぶりに発売される痛風・高尿酸血症治療剤です。同剤は、痛風・高尿酸血症患者の血中尿酸値を低下させる効果を有しており、臨床試験において、その有効性と安全性が確認されています。また、軽度から中等度の腎機能障害あるいは肝機能障害を有する患者さんでも、投与量を調節することなく服薬出来る結果を得ています。


という薬だそうだ(武田薬品HPの「米国における痛風・高尿酸血症治療剤の販売許可取得について」より)。キサンチンオキシダーゼとは、痛風の原因となる尿酸生成合成酵素のことで、それの生成を阻害する薬であるそうだ。

マシューさんという長年痛風と闘ってきた一人の男性の話があげられている。この人は痛風によって車イスを使うようになったり、寝たきりになり、痛風の耐えがたい痛みによって自殺することを考えるようになったという。

“It was like having a toothache so bad you can’t stand it, all over your body,” 「耐えられないひどい歯痛が全身に及ぶようなものだ」

と彼は語る。そんなマシューさんはKrystexxaの臨床テストを受けることになった。

痛風はある種類の肉や魚、ビール、そして糖分の多いジュースを摂ることによってリスクが上がるそうである。痛風は初期段階では、痛みは数日間続くか、耐えがたい痛みに襲われることは稀にしかないが、しかし、これが続くと尿酸塩の結石によるしこりができる。多くの医者や患者は痛風による痛みだけをナプロキシンやステロイド、コルヒチン治療しようとする。問題なのは、慢性的な症状を抱える患者に対して、薬を処方することで、大食家の彼らが入院するのを留めることになることだ。

痛風が起こる原因は食事だけでなく、遺伝的な要素などがあるという産業界によって広められた武田薬品とSavietはthe Gout and Uric Acid Education Societyという病気への知識を普及させるための組織に資金を提供している。

高濃度の尿酸によって引き起こされる病気は他にも、高血圧や肥満、腎臓の損傷、糖尿病などの病気がある。昨年行われた調査によると、痛風治療薬による治療は十代の高血圧を減少させたそうだ。現在では、1500〜2000万人の人が高尿酸血症になるレベルまで尿酸の値が上昇している。しかし、痛風の症状が出ないために、彼らは治療を受けようとしない。しかし、これからの研究が高濃度の尿酸が他の病気に寄与するということがわかったとしたら、高尿酸血症によって、自分が病気であるとわかるようになるかもしれない、そしてある日、コレステロール値を下げるために薬を飲むように何百万人もの人が尿酸値を下げるために薬を飲むかもしれない。

最後にSavietの社長であるPaul Hamelinによる

“There’s a huge amount of ground that nobody’s ever plowed yet.”「まだ広大な誰も投資をしていない分野がある」

という言葉で締めくくられている。人間の寿命が延びたことによって、マシューさんのようにたくさんの人が病気と闘っていかねばならなくなった。病気というものは人間であれば誰しも避けては通れないものであるので、世界中がマーケットになる。高品質の薬を開発することができれば、みんなの利益になるだろう。Paul Hamelinの言うように、まだ未開拓の部分が多いならば、まだまだ製薬会社には安全で信頼できる薬をこれからも開発していってもらいたいものだ。
    19:16 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

長期金利上昇 1.555%に

米長期金利が上昇したことを受け、長期金利の指標である新発10年物国債の利回りが一時、1.555%となり、約7カ月半ぶりの水準まで上昇した。

経済指標の主なものとして、金利と債券価格の2つがありますが、これらは原則として以下のような性質を持っています。

ゞ睛が上昇すると、債券価格が下落する。
金利が下落すると、債券価格が上昇する。

例えば、「額面金額100万円、期間3年、利率5%」の債券が発行されたとします。この債券を購入すると、年5万円(税引き前)の利息が支払われます。

ここで、世の中の金利が7%に上がったとします。そして、債券の利率も世の中の金利に連動して7%に上がったとすると、債券は「額面金額100万円、期間3年、利率7%」となります。この債券を購入すると、年7万円(税引き前)の利息が支払われます。

先程の利率5%の債券が100万円のままだった場合、どちらの債券が魅力的でしょうか。利率5%の債券より、7%の債券を購入するでしょう。利率5%の債券を額面金額100万円で購入する人はいなくなり、金利水準7%まで価格が下落して取引されることとなります。

なんとなくわかったでしょうか?
    21:18 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

商大小次郎

Author:商大小次郎
小林多喜二や伊藤整などの有名作家を世に輩出した小樽商科大学学生が世界に向けて意見や考え方を毎日発信します

連絡先
takeadegree@livedoor.com

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