バーリンの自由論
カントの「温情的干渉主義(パターナリズム)は考えられうる限り最大の専制である」という言葉には、純理性主義的な意味よりもはるかに広い意味が与えられることになる。
この章で問題とされていることは、他者からの自己の承認の要求は消極的自由を狭めることよりも価値があるのかどうか、ということである。パターナリズムは消極的自由を狭めはしないが、社会や政治に参加することで、得られる価値や地位は大きく制限されるか、「社会の孤立的な一原子」として扱われてしまう。自分が一個の人間―自分の生活を自分自身の目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもない)にしたがって形成してゆくべき人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間―であるという考えに対する侮辱であるからなのだ。
こうした社会や政治に参画する権利、対等の条件での結合の要求などは社会的自由と呼ばれ、「積極的」・「消極的」自由とは区別される。社会的自由の約束されている社会では、たとえ
ここで、有機的な社会に対する地位や承認の要求は、第3の意味としての自由への要求と名付けることは自然であり、望ましいのかという問いが出てくる。ここでの自由とは、自分の自由と引き換えに社会的な地位を手に入れることではなく、J.S.ミルが「異教的な自己主張」と名付けたものに近い概念であると説明されている。人々が寡頭制的独裁者ないし独裁的執政者の権威に従属しておりながら、ある意味ではこれによってかれらが解放され自由にされていると主張することが可能となっている
この社会的自由は自由の積極的な意味のいくぶんかとの混合形態をとり得る。大胆さ、不適合、不適応を尊重し、世に行われている見解に対して個人独自の価値を主張することを重んじ、社会の公的な立法者なり教師なりの与える指導から自由な強い独立自尊の人格を評価している―は、干渉を受けないこととしての自由の概念にはほとんど関係しない。それが大きく関係するのは、自分の人格にあまりに低い価値を与えられたくないという欲求、また自分の人格が自律的・独創的な「真正」の行動―たとえこうした行動が悪口や社会的制約や禁止的立法に出くわすにしても―のできないものとみなされたくないという欲求なのである。
しかし、ミルやコンスタンといった自由主義の先達たちは社会生活の最小限の要求と最大限の無干渉を要求する。これらの人が要求する犠牲は、安全、地位、繁栄、権力、徳、来世での報償を目的としてなされるものである。過去にこれらを達成しようとして闘ってきた人たちは、自分たち自身あるいは自分たちの代表によって統治される権利のために戦ったのだ。ここで、前回書いた、真実の自我あるいは理性は全ての人間に普遍的に備わっているので、「万人のために正しく計画された生活は万人の完全な自由と合致するであろう」という考えは、自由という用語の明らかなあいまいさの背後に潜んでいる、心理的・政治的事実を認めないことからきている、とバーリンは推測している。どのような社会でも、その成員の自由のすべてを文字通り抑圧してしまうものではない。自分のしたいことを一から十まで他人に妨げられる存在は、決して道徳的行為の主体ではありえない。(中略)法的、道徳的にはかれは人間とみなされるわけにはゆかない。
かれらの訴えは明白であり、かれらの主義は正しい。しかし、かれらは人間の願望の多様性というものを斟酌していない。またさらに、一つの理想への道がその反対へも通じているということを、ひとは得心のゆくように巧みに証明してみせることができるのだという点に、かれらはじゅうぶんな考慮を払っていないのだ。
続きます。





