時事問題の全てがわかる!
谷垣新総裁選出の舞台裏
毎度のことであるが、自民党の総裁選は「出来レース」だといわれる。つまり、総裁選なんかやるまでも無く次の総裁は決定事項であるかのように、裏で自民党ベテラン議員たちが操っているのである。その最たる人物が森善郎なのだろうと思われる。森さんは最大派閥の町村派の意向を操ることが出来るのみたいなので、未だに森さんの権力は顕在なんでしょう。
表向きはきちんと総裁選挙を行っているのだから、実際のところはわからない部分があるので、メディアもあまり大々的には報道しませんが、石破茂さんや石原のぶてるくんなどの次期総裁有力候補だった人たちが相次いで、不出馬を表明したことなど、種々の事情を考え合わせると、やっぱり総裁選はただのパフォーマンスなのかと思ってしまいます。
今回当選回数三、四回の所謂中堅若手の部類に属する河野太郎氏と西川康稔が出馬したわけですが、一説によると、西川さんの出馬は単なる河野つぶし!であったようです。
つまり、どうしても谷垣さんを総裁にしなければならなかった自民党の重鎮たちは河野太郎を非常に脅威に感じた。国会議員表では谷垣さんが間違えなく勝てるだろうが、地方票になるとわからない。河野に総裁になられるわけにはいかない。そう危機感を持ったわけです。
そこで、結局、河野氏の支持層というのは自民党の派閥体制に批判的で中堅若手議員をもっと党の要職に起用して、自民党再生を図ろうとする人たちであるので、同じ中堅若手に西村氏を擁立することで、河野氏支持層を分裂させようとしたとの事です。
まあホントかどうかはわかりませんが、可能性は十分あるでしょうね。
最近は自民党でも派閥弱体化なんてものが叫ばれてますが、、、、、、、まだまだ重鎮たちは力を持っているようです
無言館取材原稿再現
「もし日本が侵略国家であったというならば、当時の列強といわれる国の中で侵略国家でなかった国がどこであるか問いたい。よその国がやったから日本もやって言いということにはならない、しかし日本だけが侵略国家だといわれる筋合いはない。」今までの日本人の歴史認識を覆す論文が世間をにぎわして以来、日本人の自虐史観を疑問視する声も少なくない。
歴史の解釈、日本の戦争責任などに対しては様々な意見がある。しかし、あの戦争が多くの尊い命を奪ったこと、そしてその中には「無言館」に展示されている作品を描いた画学生もいたことは事実である。そして、あのような忌まわしい戦争をすることに賛同するようなことがあってはいけないという想いは誰も否定しないだろう。
脱官僚!政治主導!
民主党政権が誕生した模様です。子供手当て?やら高速道路無償化?高校教育無償化?
それでも、消費税は民主党が政権を担当する四年間は引き上げません。ホントに財源は大丈夫なのか?
麻生さんなら、「なんとなく、聞こえはいいようなことばかり言うが、財源の裏づけがまったくない。究極のばらまき政策だ!」といいそうなところですね。
さて、民主党がこれら財源問題をどのように解決してくれるか注目したいところですね。これだけ自信満々に言うのだから、まさか国債大量発行なんて事にならないようにしてもらたいですね。
さて、脱官僚を掲げる民主党ですが、果たして民主党がどこまで官僚に対峙できるかも注目です。官僚の反感を買うようなことばかりやって、ホントに政権運営ができるのか、政策や方針を決定し指示を出すのは政治家かもしれませんが、実際に官庁内で仕事をしているのは官僚だということを忘れてはなりませんね。
部下に嫌われている上司が、部下を使って仕事ができると思っているのでしょうか?注目したいところです
麻生、安部、福田はなぜ当選できる?
麻生さんなんかは、選挙期間中全国遊説でほとんど地元には帰らなかったにもかかわらず、当選したわけです。それは鳩山さんにも言えることですが、、、
やはり総裁は自分の選挙区に張り付いている暇がないのか、党全体のことを考えて全国を応援して歩かなければならないために、地元にはほとんど顔を見せないらしいですね。
それでもメディアに対する露出度が格段に高いためもあって、当選できてしまうんですね。
個人的に注目なのが石破茂さんで、今回の総裁選には出馬するんでしょうか?私が一番押す人物名だけに、今回の選挙でも強かったですね。なんと52歳にして八回目の当選です。八回連続で一回も落選していないんです。
愚痴論
愚痴論ということで、今回は愚痴について私の意見を述べさせていただきます。
まず、そもそも愚痴を言うのはよろしくないことです。なぜなら、愚痴を言うことで、愚痴の原因になった物事が解決するわけでもないし、愚痴を言うことで、その物事についてさらに腹が立ってくることになるからです。要は精神衛生上よろしくない結果を招くから、愚痴を言うのはよろしくないんです。
でも、単に愚痴を言うよりもよくないことがあります。それは、愚痴を言うことで、その愚痴を聞いている人を自分の考え方で染めてしまおうとすることです。例えば、誰かの愚痴を言っている場合、その「誰か」の人間性を知らない人に対して、その「誰か」の愚痴を言った場合、その愚痴を聞いている人は、大抵の場合はその「誰か」について良くない印象を持つことになるでしょう。そして、それは良くない先入観として残り、その後にその人が「誰か」と実際に接触した時の感情に影響を与えます。これはあまりよろしくないと思うんですよね。
誰かの愚痴を人に聞かせる人は、その愚痴を聞いている人が自分の味方になりさえすれば良いと考えているのでしょう。言い換えれば、その人を自分の味方にすることによって、その人を自分の都合の良いようにしようと考えているように思えます。要は、愚痴を聞かせることによって、相手を「(都合の)良い人」にしようとしているんですね。
とにかく、愚痴を言うことは短期的に見れば、精神を安定させるのに良いのかもしれませんが、所詮はその場限りのことです。長期的に見て、愚痴を言うことのメリットはゼロです。だから、何も考えずに愚痴を言って、むやみに他人を自分の陣地に引き込もうとするのはやめましょう。
こんな感じで、「愚痴を言う人」について、私が愚痴ってしまいました。今後、このようなことが無いように気をつけます。
終わり
※念のため書いておきますが、この記事は月、木曜日担当の澤谷が書きました。
交際には妬みが付き物
このような曖昧な状況を、もっとわかりやすくしておかないと、問題が生じてくる。具体的には、俺の女に手を出された、彼を寝取られた、このようなわかりやすいものだけでなく、彼氏・彼女がいると思ったから、自分は手を出さないことにしていたのに、実は誰とも付き合っていなかったため、自分は好機を逃してしまった、というような状況も考えられる。もっとも、一般的に問題になるのは、「手を出しされた」の方なので、こちらの問題について以下に論じよう。
では、「手を出された」という問題を予防、あるいは減少させる方法はあるのか。私はあると思う。
その方法はいたって簡単である。交際している男女が、外部に対して常に「私たちは付き合っています」ということを発している状態、いわば対抗要件を表示しておくことで、このような問題は予防できるのではないかと思う。ただし、単純にこのように考えた場合、「手を出す人=付き合っているという事実を知らない」という、法律用語で言えば善意の第三者のような人であることが前提である。
だが、世の中には誰もパートナーを得ることができず、リアルが充実していない人も少なくない。こういった人たちは、他人が幸せそうにしているのを見ると、概して自分が不幸であると感じ、幸せそうにしている者たちを嫉妬する。そして、最悪の場合は妨害をしたりする。だから、外部に表示してる場合の方が「手を出される」という場合もあるのだ。
何が言いたいのかというと、「手を出されたくない」ならば、外部に表示することによって善意の第三者が手を出すのを予防する必要があるが、その場合でも、嫉妬している者が手を出すのは防ぎきれないということである。そう、誰かとお付き合いをするためには、嫉妬される覚悟が必要なのである。さらに言えば、嫉妬によって手を出されることも覚悟しておく必要があろう。
最後に、上に書いたのはあくまでも理屈である。人は、「感情」という理屈を曲げるものを持っているため、実際はこんなに簡単にいくはずがない。まして、人がいかに理性を持っているとは言え、本能的な欲求によって異性を求めるところが大きいのであるから、こんなに簡単に論じることができるはずはないのである。
(さわやたくみ)
「本音を話す」という建て前
「本音」と「建て前」を両方ともうまく使いこなせることによって、人は初めてバランスのとれた生活を送ることができるのではないでしょうか。そもそも、世俗から離れて一人きりになったりしない限りは、建て前というものを完全に捨て去ることはできないと思います。人は一人で徹底的に物事について考え、そこで初めて何が本音なのか、自分が本当に正しいと考えるのはどのようなことかがわかってくるんです。
このようなことを踏まえると、人は社会で生活を送る限り、本音と建て前を使いこなして生きていかなければならないということがわかります。そのことをよく理解しているにもかかわらず、安易に「本音を話そう」ということ自体が建て前なのではないでしょうか。
「本音を話そう」という提案が建て前である限り、誰も本音を話そうとは思わないでしょう。そもそも、どうしても本音を話す必要がある場面というのはかなり限られていると思います。その「必要な場面」を個々人が感じとり、必要に応じて本音を話しているのが正常な姿なのです。だから、「本音を話そう」という風潮が生じてくること自体がおかしいのです。
考えてみてください、みんなが本音しか話さない世界を。よっぽど純粋な人でない限りは、かなり苦しい世界が思い浮かぶでしょう。わかりますよね?本音だけでは世の中はうまくいかないんです。逆に、建て前しかない世界もそれはそれでうまく行かないのでしょうがね。
しばしば、「本音を話そう」という意見が出るのは、おそらく、それほど考えることなく軽率にそのような意見を発する人が人がいるからでしょう。そのような人は純粋すぎます。自分が建て前を言っていることに気がついてないのでしょう。
私は、「本音を話そう」という雰囲気になった時、いつも心の中で「はいはい。そうですね」と思っています。くだらないんですよいつもいつも。
世の中には、知りたくなるけれども知らないほうが良いことがたくさんあります。知らぬが仏という諺があるぐらいですから。
バーリンの自由論
カントの「温情的干渉主義(パターナリズム)は考えられうる限り最大の専制である」という言葉には、純理性主義的な意味よりもはるかに広い意味が与えられることになる。
この章で問題とされていることは、他者からの自己の承認の要求は消極的自由を狭めることよりも価値があるのかどうか、ということである。パターナリズムは消極的自由を狭めはしないが、社会や政治に参加することで、得られる価値や地位は大きく制限されるか、「社会の孤立的な一原子」として扱われてしまう。自分が一個の人間―自分の生活を自分自身の目的(それは必ずしも理性的なものでも博愛的なものでもない)にしたがって形成してゆくべき人間、なかんずくそのような存在として他から認められる資格をもった人間―であるという考えに対する侮辱であるからなのだ。
こうした社会や政治に参画する権利、対等の条件での結合の要求などは社会的自由と呼ばれ、「積極的」・「消極的」自由とは区別される。社会的自由の約束されている社会では、たとえ
ここで、有機的な社会に対する地位や承認の要求は、第3の意味としての自由への要求と名付けることは自然であり、望ましいのかという問いが出てくる。ここでの自由とは、自分の自由と引き換えに社会的な地位を手に入れることではなく、J.S.ミルが「異教的な自己主張」と名付けたものに近い概念であると説明されている。人々が寡頭制的独裁者ないし独裁的執政者の権威に従属しておりながら、ある意味ではこれによってかれらが解放され自由にされていると主張することが可能となっている
この社会的自由は自由の積極的な意味のいくぶんかとの混合形態をとり得る。大胆さ、不適合、不適応を尊重し、世に行われている見解に対して個人独自の価値を主張することを重んじ、社会の公的な立法者なり教師なりの与える指導から自由な強い独立自尊の人格を評価している―は、干渉を受けないこととしての自由の概念にはほとんど関係しない。それが大きく関係するのは、自分の人格にあまりに低い価値を与えられたくないという欲求、また自分の人格が自律的・独創的な「真正」の行動―たとえこうした行動が悪口や社会的制約や禁止的立法に出くわすにしても―のできないものとみなされたくないという欲求なのである。
しかし、ミルやコンスタンといった自由主義の先達たちは社会生活の最小限の要求と最大限の無干渉を要求する。これらの人が要求する犠牲は、安全、地位、繁栄、権力、徳、来世での報償を目的としてなされるものである。過去にこれらを達成しようとして闘ってきた人たちは、自分たち自身あるいは自分たちの代表によって統治される権利のために戦ったのだ。ここで、前回書いた、真実の自我あるいは理性は全ての人間に普遍的に備わっているので、「万人のために正しく計画された生活は万人の完全な自由と合致するであろう」という考えは、自由という用語の明らかなあいまいさの背後に潜んでいる、心理的・政治的事実を認めないことからきている、とバーリンは推測している。どのような社会でも、その成員の自由のすべてを文字通り抑圧してしまうものではない。自分のしたいことを一から十まで他人に妨げられる存在は、決して道徳的行為の主体ではありえない。(中略)法的、道徳的にはかれは人間とみなされるわけにはゆかない。
かれらの訴えは明白であり、かれらの主義は正しい。しかし、かれらは人間の願望の多様性というものを斟酌していない。またさらに、一つの理想への道がその反対へも通じているということを、ひとは得心のゆくように巧みに証明してみせることができるのだという点に、かれらはじゅうぶんな考慮を払っていないのだ。
続きます。
大証、統合市場「ジャスダック」有力
また、大阪証券取引所は、2010年4月にも子会社のジャスダック証券取引所と合併する方向で調整しているようだ。ジャスダックが大証傘下の新興市場ヘラクレスと同年秋に予定している上記のような市場統合を前に、組織を一本化し、意思決定を迅速化するのが狙いのようである。
こうした動きが株価などにどのような影響を与えるのか。今後の動向が気になるところである。
麻生総理の党役員人事刷新について
新たな役員候補として上がっているのが、石破茂氏やます添え氏らしいが、石破氏は打診なんてあるわけがないと口にしていることから、、、、麻生さんは一体なにをかんがえているのか?
明日に解散があってもおかしくないほど、政局は緊迫している状況です。むしろ、都議選とかぶらないようにする必要もないというのが麻生氏の本音だろうから、意表をついた次期に解散してくる可能性が高いような気がする。
あえて、マスコミが予想する次期とはずらす戦略を津kじゃいそうな気がします
東国原なんて必要ない
もちろん、あれだけ人気のある知事が衆議院選に出馬すれば自民党にとってプラスになることは間違いない。だからといって、選挙に勝つためなら何でもするのか?という声が上がっている。
まず第一に、東国原氏が次期衆議院選に出馬するとなると、宮崎県知事の職務を任期途中で投げ出すことになる。もしそんなことがあれば、無責任極まりないことだろう。
そして、第二に、東国原知事はついこないだの選挙で知事に就任したばかりの、政治家としては素人といってもいい人物である。東国原知事は自分を自民党総裁候補にする気があるのか問いただしたようだが、もしそんなことがあれば、当選回数を重ねている自民党のベテラン議員は黙っていないだろう。
いくら人気があるからといって、地道に当選を繰り返してきた有力議員を差し置いて、東国原氏を総裁候補にできるはずがない。
第三に、いくら選挙で勝ちたいからといって、現在いる自民党のメンバーで勝負をせずに、国民的な人気の高いタレント知事をヘットハンティングしてごまかしているようでは、国民の目線は冷たいものになるということである。
今回の一軒は、政治家は選挙に勝てて何ぼなもので、選挙に勝つためにあらゆる手段を講じる事のいい例である。
バーリンの自由論
もし、個々人が理性を持つことになると、そういう人が集まってできた国家は理性的な国家ということになる。もし、AさんとBさんが理性的であるならば、Aにとって正しいことは、Bにとっても正しくなければならない。これが正しいならば、Aにとって正しくないことは、Bにとっても正しくないと言えるだろうか。またそれを理由に両者を拘束するような法律を作ることは許されるか。このような法律の必要性は、弱者を保護されなければならないという点があげられる。しかし、上記の前提を正しいとする説からは、これは人間の「非」合理的な性質がもたらす側面であると考える。
自分に反対する人間はどう扱ったらよいのか。AとBのどちらもが自分が理性的だと主張するなら、どちらかが、どちらかを抑圧することになるのではないか。これについて、
という問題提起をした上でわたくしの計画がじゅうぶんに理性的であるとしたら、それはかれらの「真」の本性のじゅうぶんな展開を容認し、わたくし自身の能力の実現の一部としてかれらの理性的な決定の能力の実現をも認めることになるのではあるまいか。
と結論づける。万人のために正しく計画された生活は万人の完全な自由と合致するであろう
これはどういうことかと言うと、人間にはそれぞれ、「真」の自我の真の「必要」があり、これに基づく要求が一致しないのは、一方が、その「真」の自我の真の「必要」を理解していないか、理性が眠っているのだというのである。この考えを裏付けるのに、スピノザは「子供は、強制されはするけれども、奴隷ではない」と言うし、ロックは「法律のないところには自由もない」と言う。従って、ここでの自由とは、非理性的なこと、愚かしいこと、あるいは悪いことをする自由ではない。経験的な自我を正しい範形へ押し込めることは圧政ではなく、解放なのだ。また、ルソーはある共同体のなかにおいて、自分の全生活を社会のためにするものだとすれば、それは社会全成員の平等な犠牲によって作られたがゆえに、その成員を誰も傷つけることのないひとつの実態を創出するのだと言う。これらの言説に反して、ベンサムは法律の仕事は解放ではなく拘束であると主張した。
この言い分が正しいならば、つまり、誰もが理性的である状態であるならば、もはや自分が法律に拘束されているという意識は無くなるだろう。これを実践したのが、アナーキストたちである。それでは、どうしたら、人間をこのように理性的なものにすることができるのだろうか。非理性的な人は教育されるべきであると考えられる。ここで、これまで見てきた説を支持する人はこう主張する。教育はその必要性が後からでなければわからないがゆえに、強制されなければならない、と。すなわち、理性的な人に服従するのは、将来理性的な人間になる自分に服従することであるから、これを肯定するべきだと言うことである。これは、フィヒテやコントによって支持され、のちに、最近のナショナリストや、共産主義者などに至る他の権威擁護者たちによって用いられた議論であるのだ。
バーリンは、カントが自己の内なる光に従う自由な個人の理性の名において、一番激しく抗議したものが、なぜこのように奇妙な転倒を引き起こしてしまったのか、という疑問を抱いた。このような主張をしたカントであっても、道徳のレベルでは、このような主張には妥当性を持たせることができるが、話が政治に及ぶと、
この理由は次によって説明される。法律は、もしそれが理性的存在としてみずからに問うてわたくしが承認せねばならぬようなものである限り、おそらくわたくしの理性的自由をいささかたりとも奪い取ることはありえないであろうということを容認した。
と言う。もしこれが認められるなら、自由と専制主義とは変わらないのではないか。この議論のどこかに間違いがあるのではないか。また、正しいと証明できなければ、この説で主張される真理とは真理ではないのではないか。理性という審判者があなたを牢獄へ送ったという事実は、あなたが自分の内なる理性に耳を傾けなかったことの証拠であり、あなたが子供や野蛮人や白痴のように、自己支配しうるまでに成熟していないか、あるいは永久にその能力がないかの証拠であるからである。
といったところで、続きます。
「学生の本分は勉強だ」って誰が言った?
おそらく、大部分の人が「勉強=座学」と認識しているのではないだろうか?もちろん、バイトをしたりすることだって勉強の一つだ、と言う人もいるに違いないが、やはり、「勉強=座学」という認識が蔓延しているように思えてならない。
私が言いたいこと。それは、「『学生の本分は勉強だ』と言って、座学を真面目にやらない人を罵るな」ということである。
もちろん、座学によって得ることも多いだろうが、一概にそうとは言えないだろう。
やはり、学びたいことを学ぶのが一番である。向き不向きはあるとしても、自分のやりたいことをやるというのが一番勉強になるのではないか?
座学を真面目にやっていない人も、他の場所では勉強をしているのだ。「勉強=座学」ではない。勉強というのはもっと広くて深い意味を持っている。
こういった意味からも、「学生の本分は勉強だ」というのは確かに真理かもしれない。だが、一般的な使われ方だと、なんだか建て前のようになっている気がしてならない。
人間論
あなたは極度に争いごとを嫌い、滅多におこったり、不機嫌そうにしたりしなくて、いつも穏やかにいきています。いや、できるだけ怒らないようにしてるんですよね。そして、自分の主張はあまり強く押し出さない。だって、周りとの良好な関係が大事なんだから。
それでも、どこか方向性を間違えたような感じさえ受けます。でも間違えたなんて絶対自分で認めたくはないんですよね。きっときっと、、自分の人生否定してしまうことになるんですね。
あなたは同じ職業の人の中ではずいぶんと珍しいタイプなんですね。前の職業には完全に向いてなかったようです。わかりますよ。あなたの性格で、、そんなタイプじゃないですもんね。どこか周から好かれるのが得意そうで、周りに合わせるのが得意そうで、、、争いや揉め事を極度に嫌ってそうで、、、、
人間というものをよくわかっているみたいですね。きっときっとあなたからはたくさん学ぶものがありますよ。きっと人は人間関係という恐ろしく厄介なものから逃れる手段はないんです。
バーリンの自由論(二つの自由概念について)
人間は何か目的を達成しようとすると、さまざまな障害にぶつかりがちだ。実際手に負えない困難にぶつかったら、その場から、いかなる攻撃も及ばない場所まで、戦略的退却するという選択があり得るだろう。
「わたくしは足を怪我した。この苦痛から逃れる方法は二つある。ひとつはその傷を癒すことだ。しかし、この治療がなかなか困難であるとか不確実であるとかいう場合には、もう一つ方法がある。つまり、その足を切断してしまえば、わたくしは、その傷から逃れられるわけだ。どうしても足のあることを必要とするようなものはなにも欲しないように訓練を積めば、わたくしは足のないことを感じなくなるであろう。」
この考えを個人に適用されると、カントのような人たちは、「わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。」ということができる。これを、仮に人間の本質であると見るならば、なによりも悪いことは、人間を自由なものとしてではなく、材料として扱うことである。外的な刺激を目の前にぶらさげることで、その人を意のままにしようという扱いは、ベンサムら功利主義者が肯定するところである。カントはこう考えた。
あらゆる価値が人間の作り出したものであるならば、個人よりも高い価値は存在しないはずである。だとすると、ひとが意思せず、同意せぬことを強制するのは、かれら自身よりも究極的ならざるなにものかの名においてひとを強制することである。
しかし、禁欲的な自己否定がどうして自由の拡大と呼ばれるうるのか。自分を狭い部屋に閉じ込めれば、外から傷つけられることはなくなるだろうが、この考えの行き着くところは、自殺である。消極的自由の考え方からすれば、障害を取り除くという方法によって、自由を増大できる。しかし、現実は、自由の「積極的」概念のために、「消極的」概念を斥けているのだ。
自由を達成する真の方法は批判的理性を使うことだと説かれている。自分が理解していない数学の定理は外部の権威によって真理であると言明されていおり、この時点ではこの定理は異物でしかない。しかし、この働きを理解したならば、数学的真理というものはもはや、外的権威によって裏打ちされた外的実在ではなく、自分の理性的活動の自然な働きの経過のなかで自由に意志するところのあるものとして現れてくる。この働きは、数学や音楽等のことにだけ当てはまることではなく、あらゆる障害物をこのような仕方で克服できると考えられた。これが、啓蒙的合理主義の要綱である。
自律している、という状態は理性的必然性を理解している状態であり、他律されている、という状態はその人の無知ゆえに生じると説かれる。この考え方からすると、世界を理解することによって我々は自由になれると言うことができる。ヘルダーやヘーゲルやマルクスは、社会生活は、数学や物理学からのアナロジー(類推)によっては理解できない。だから、歴史を理解しなければならない。歴史とは、「個人や集団、それら相互間の、またそれらと自然との相互作用を支配する連続的生成の特殊な諸法則」である。ヘーゲルやマルクスは、歴史上の人々が制度の本性を誤解していたのだと説いた。
知識がわれわれを自由にするのは、不可能な企ての挫折からわれわれを免れさせてくれるからだ。XであらねばならないものがXでもないことを欲するというのは不可能であるゆえに非理性的な欲求である。理性的な存在が集まった理性的な社会では、XはXでしかありえないという考えを否定することはできない。これが理性による解放という積極的学説であり、今日のナショナリズム、マルクス主義、権威主義、全体主義等々の信条の多くのものの核心をなしている。
また続きます。
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